『能登七尾義塾』~成り行きは神聖なるもの?~

2019年1月17日(木)19:00~21:00

『能登七尾義塾』

 

毎月第3木曜日に行われている能登七尾義塾。今日は、その様子をお伝えします。

今回使われたテキストは、内山節(うちやまたかし)さんの「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という哲学書です。この本を事前に読んできて、そこで見つけた問いや、受講者内で議論したい話題をそれぞれ持ち寄って、話すという講座です。今回も、受講者のみなさんの間で白熱した議論がなされました。

 

まずはチェックインから!今日、1月17日は何の日だったかお分かりでしょうか?

 

そうです。阪神淡路大震災から24年を迎えた日です。ということで、今日のチェックインとして、「震災の記憶をたどる」というところからスタートしました。阪神淡路大震災、能登半島地震、東日本大震災とこれまでにいくつかもの震災を経験し、乗り越えてきた受講者の記憶に刻まれた震災に関するエピソードは、皆さんとても鮮明で、それぞれの経験とそこで感じたことを共有する時間となりました。

 

チェックインが終われば、対話の時間です。毎回、テキストを読んで感じたこと、皆さんと話し合ってみたい「問い」を持ち寄って、自由に話し合います。

今回は、主に、以下の3点について話し合われました。

 

①見えないものやキツネにだまされる力

②どこかに正解があると思ってしまう私たち

③ほんとうに、自由なのかな?

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見えないものやキツネにだまされる力

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テキストに、「オオサキ」の話が紹介されています。オオサキとは、家に住みついて食事のミを食べたり、秤に乗って目盛りを狂わせたりする生き物。この話を、受講者の浜田さんは初めて耳にしたと言っていました。少しずつ貧しくなっていく家もオオサキのせいにしてオオサキ祓いを真剣にやっていた時代からすると、今のような自己責任の社会は息苦しいなぁと。コミュニティの中で、うまくいく人といかない人がいるという状態も、オオサキのせいにして、ギクシャクしたままにしておかない仕組みがあったのです。そういう目に見えないものと関わりながら、人間の社会を上手にまわしていたんですね。

 

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どこかに正解があると思ってしまう私たち

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受講者の三村さんは、これまで、必ず「正解」が存在する教育を行ってきたことで「知が弱体化」しているという点に注目しました。「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化していくということは、確かに進学率が高まった1960年代に起きたのかもしれません。

戦後の経済社会は、森林を林業の場に変えました。それが、森林の価値を薄っぺらいものにしてしまいました。本来の森林の価値は、人間を超えたものばかり。そのバックグラウンドを無くした人たちが、経済的な価値だけで自然を見てしまうのです。

最近、よく耳にする「SDGs」でも、人間以外のものはすべて人間の資源だと思っている節があります。この大元を変えていく思想が日本から出てきてもいいと思います。

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ほんとうに、自由なのかな?

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「正解」が存在しないといえば、若者が進路を決めるときも、どこかに「正解」があるように考えてしまう時があります。今は、「自分らしく生きる。」ということが重要視されていて、今の私たちは、自分の好きなことをやらせてもらえる時代になっています。しかし、それは、早いうちから自分と向き合って、自分はどうしたいのか、ということを早くから考え出さないといけない時代でもあります。一方で、昔は、自分の生きたい生き方というのは、あまり認められなかった時代で、代々受け継がれてきた、自分のやりたくないことをやっているうちに、その中でやりたいことを見つけるという時代でした。

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この比較から、今と昔、どちらが良いのだろうという話がなされました。もちろん、この問いにも正解は存在しません。しがらみの中を生きてきた浜田さんは、その中でも自由を見つけたと言います。

 

今の子どもたちは、親からの押しつけはなく、好きなことをやれて自由だと言われているけど、社会からの将来に対する期待という圧力はあって、ほんとうに、自由なのかな?という新たな問いが。選択肢がたくさんあるように見えて、実は幻かもしれません。

 

自分の内側に問いかけて、答えらしきものが見つかる時もあれば、見つからない時もある。そんなときは、自分を開いて、広いところに出てみるしかないのです。流れに身を任せてみる。「成り行きは、もっと神聖なものだと思うのよね」という名言が出ました。たしかに、深く考えずに起こした行動や、思いがけない出来事や出会いによって、その後の人生が変わってしまうことも。

参加したインターン生からも、地域の人たちと話すと「人生の話」になる、と。自分の生き方を考えてきた人たちと話す。その関係性の中で、自分の生き方を問い続けていくしかないのかもしれません。

 

自分の好きなことを押し通すという方向に行きすぎると、文化的歴史を引き継ぐことが困難な状況になってしまいます。代々の家計の中で引き継がれてきた、しがらみを受け入れることで、先祖代々引き継がれてきた店を守り、文化を守ることで、今も変わらない昔からの伝統があります。「不自由が文化を守る」のです。このことは、七尾の街を見渡せば、感じることができます。昔からの呉服屋さんや、和菓子屋さんが残っていますが、「継がずに自由に生きていいよ」と言われた1960年代から少しずつ「継ぐ」人が出ていってしまったのかもしれません。「守るために何を変えるのか。」この判断を見誤ると、本当にこれまで大事にしてきた文化などが失われてしまいます。

最後に受講者の皆さんから、今日の感想を一言ずついただいてチェックアウトとなりました。

内山さんが指摘している「1965年を境に多くのものが失われた」ということを、七尾を例にしながら実感できた、良い学びの時間でした。

今回の能登七尾義塾を通して、一つのテキストからこんなにも深く考えさせられる話題があるのだ、ということを痛感しました。何よりも、はじめから決められている話題ではなく、受講者それぞれがテキストから感じた問いを持って参加し、それを共有するというところに意味があるのだということを感じました。

来月は2月21日木曜日です。

テキストは今回と同じ、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』を使います。

ブログを読んでくださっている方、ぜひゼミ生となって一緒に問いを持ち寄り、対話してみませんか?

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

 

     
     

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